「噛んで含める」という言葉があります。母親が食べやすいように食物を噛んでやわらくし、子どもに与えることです。母親の子どもに対する愛情をこめた言葉です。
ところが、最近は母親が子どもに口移しで食べ物を与えてはいけないと指導されます。いわゆる虫歯の可能性や胃潰瘍や胃がんの原因となるヘリコバクター・ピロリ菌が子どもに感染する危険があるからです。
今回はすっかり悪者になっているヘリコバクター・ピロリ菌の話題です。

胃の中には強酸の消化液があり、微生物にとって住みつくにはいい環境とはいえません。
オーストラリアのパース市といえば鹿児島市の姉妹都市なのでご存知の方も多いでしょう。パース市にあるロイヤルパース病院の病理学者であるロビン・ウォーレンは胃炎のバイオプシー検体から炎症部位にらせん状バクテリアが存在することを観察していました。
若き研修医だったバリー・マーシャルがそれをみて興味を持ちます。ふたりはヘリコバクター・ピロリ(H.ピロリ)菌の培養に成功し、胃潰瘍をおこした患者ではH.ピロリが高率に存在することを明らかにします。H.ピロリは胃炎や胃潰瘍の原因であるという仮説を発表しましたが、学会からは冷たい目でみられただけでした。あまりにも医学の常識から外れているからです。
実際のところH.ピロリの存在だけでは直接的な証拠になりません。そこで、マーシャルはH.ピロリを自ら飲むという人体実験を試みます。
そのような実験に同意してくれるのは他ならぬ自分だけということで、小さな薬瓶一杯のH.ピロリを飲み込みます。

果たせるかな、1週間後に検査したところ、胃に炎症病変ができ、炎症部位にH.ピロリの存在が確認できました。
そのような経緯でH.ピロリによる胃の炎症が潰瘍の発生と関連し、胃がんの原因ともなることが明らかになりました。
この功績で、ふたりに2005年ノーベル医学生理学賞が贈られます。

今ではH.ピロリと胃がんの関連は疑いもないことで、H.ピロリに対しては積極的な治療が行われます。しかしながら胃がん部位にピロリ菌が存在するわけではなく、ピロリ菌によって生じる萎縮性胃炎という組織が胃がんの素地になることが知られています。
またピロリ菌は尿素を分解する酵素、ウレアーゼ活性、が高いです。胃粘膜から分泌された尿素がウレアーゼにより分解され、アンモニアイオンを生じます。それが局所の酸性度をおさえピロリ菌は胃で生存できます。

H.ピロリは元々常在菌といっていい存在でした。
発展途上国では90%の人が感染しています。先進国では10-20%程度です。おそらく何万年も前からヒトに感染していたと推測されています。宿主特異性はあるものの、すべてのほ乳類と鳥類の一部に存在しています。
実際に被験者からH.ピロリを採取し塩基配列決定をおこなうと、興味深いことがわかります。
人類と長らく共生していたので、人類の移動の歴史と同様にアフリカ集団でH.ピロリの多様性が高く、アジアやヨーロッパでは多様性が低くなっています。人類移動の指標ともなっています。
乳児期は胃酸の分泌が不完全であるため、感染しやすくなります。ですので、古来続いていた母親からの口移しが感染径路のひとつと考えていいでしょう。

ニューヨーク大学のマーティン・ブラスターは異なる視点からH.ピロリの研究を行いました。
H.ピロリは人類にとって常在菌というべきものであったので、単に病気をおこす病原体ではありえない、そうすると、現在のように感染率が低くなったことの方が問題となります。
そして近年頻度が高くなった疾患に目をつけました。喘息に代表されるアレルギー疾患です。アレルギー疾患が近年増加したことは、衛生仮説で説明されます。すなわち、小児期に衛生的な環境で過ごしたためアレルギーをひきおこしたというものです。
元来、人類は寄生虫感染などが普通であったのに、現代の清潔な環境がアレルギーを増やす原因となったと考えられます。ブラスターは小児喘息の患者と非罹患者でH.ピロリの感染の有無との関係を検討してみました。すると、喘息とH.ピロリ感染には負の相関がありました。
すなわち、H.ピロリに感染している人は喘息にかかりにくくなります。H.ピロリがアレルギーにかかりにくくしていたということで、衛生仮説に合う結果でした。この現象は小児期(15歳まで)のみで、成人ではみられません。

最近ではH.ピロリは、見つけたら処理する、という対応がなされます。根絶治療というものです。
確かに、胃潰瘍のみならず胃がんのリスクがあるので、理解できます。ただし、小児期においてはH.ピロリがアレルギーを減弱させるので利点の方が大きいかもしれません。そうしますと、小児期まで感染させておいて、ある時期に根絶治するという方針があってもいいのかもしれません。
なお、H.ピロリは胃液の逆流を防ぐらしく、食道がんやバレット食道炎、逆流性食道炎に対しては抑制的に働くそうです。